作家プロフィール

はじめに

奥田元宋先生と奥田小由女先生のご夫妻は「ふたりの美術館」を作ることを希望されており、美術館に納めるための作品が散逸しないように手元に置かれていました。そして「お二人の故郷であるこの地に美術館を誘致したい」という三次市の強い要望と、ご夫妻の故郷に対する思い入れとが合わさり、奥田元宋・小由女美術館の建設が決定しました。
「ふたりの美術館」に展示するために準備されていた、奥田元宋先生の日本画作品16点と写生作品4点、奥田小由女先生の人形作品36点の計56点が、満を持して2001(平成13)年に三次市に寄贈され、奥田元宋・小由女美術館の常設展示作品として広く公開されることになりました。
このたび、奥田小由女先生が令和2年度文化勲章を受章されたことにより、昭和59年受章の奥田元宋先生とともに日本で初めて夫妻揃っての文化勲章受章となります。2006(平成18)年にお二人の名前を冠する当美術館が建設・開館した時から長年待ち望んでいたことであり、奥田元宋・小由女美術館にとっても大変名誉なことです。
今後ともお二人の作品を広く収集、公開し、多くの皆様に親しまれる美術館であるよう努めてまいります。

 

奥田 元宋(日本画家)
文化勲章受章 広島県名誉県民

1912(明治45)年、広島県双三郡八幡村(現在の三次市吉舎町)に生まれる。小学校4年生の頃から、図画教師であった山田幾郎教諭の影響で絵を描き始める。1930(昭和5)年に上京し、同郷の日本画家・児玉希望の内弟子として本格的な画家生活に入る。
1938(昭和13)年の第2回文部省美術展覧会(新文展)で《盲女と花》が特選を受賞。人物画や花鳥画を中心に創作していたが、戦況悪化にともない郷里に疎開。古典資料もモデルも不足している中で故郷三次の自然を写生することに没頭し、風景画に開眼。1949(昭和24)年の日展にて《待月》が特選と白寿賞を受賞し、風景画家としての画業を歩み始める。
その後、風景画を通して日本画の新たな表現を模索し続け、1975(昭和50)年における《秋嶽紅樹》にて「元宋の赤」を切り拓く。以降、自然の風景を赤で表現することに傾倒していく。
画業の他にも、宮中の歌会始の召人に選ばれる等、短歌の世界に傑出した才能を示す。1977(昭和52)年に日展理事長に就任。1984(昭和59)年に文化勲章を受章、1989(平成元)年には広島県名誉県民として表彰された。
1996(平成8)年、京都・慈照寺(銀閣寺)の庫裏大玄関および弄清亭の障壁画を完成。
2003(平成15)年2月15日、多くの人に惜しまれつつ逝去。享年90。

奥田 小由女(人形作家)
文化勲章受章 広島県名誉県民 三次市名誉市民

1936(昭和11)年、大阪府堺市に生まれ、3年後広島県双三郡吉舎町(現在の三次市吉舎町)に移る。旧姓・川井小由女。
創造的な人形作品に影響を受け、日彰館高校卒業後に上京し紅実会人形研究所の林俊郎氏に師事、人形の勉強に取り組む傍ら画家や彫刻家にも技術を学ぶ。20代の時にヨーロッパ旅行を通じて西洋美術に触れながら日本の美の魅力を再確認したという。1960(昭和35)年に現代人形美術展、日本女流人形展に出品して受賞。その他、光風会展、日展、日本現代工芸美術展に出品、入選を重ねる。
1972(昭和47)年の第4回日展で《或るページ》が特選を受賞し、1974(昭和49)年の第6回日展で《風》が再び特選を受ける。この頃は白を基調とした抽象的な造形表現を試みていたが、奥田元宋と結婚する前後から、色彩豊かな女性像の作品が中心となる。
1988(昭和63)年の第20回日展に出品した《海の詩》で文部大臣賞、1989(平成元)年の第21回日展に出品した《炎心》で日本芸術院賞を受賞。この頃から展覧会に出品する人形作品の他、レリーフの大作の制作も手がける。1998(平成10)年には人形作家としては初めて日本芸術院会員に任命され、2008(平成20)年に文化功労者として顕彰。2020(令和2)年に人形作家としては初めて文化勲章を受章した。
2014(平成26)年7月に日展理事長に就任(2022年まで)、同年11月に三次市初の三次市名誉市民として、2020(令和2)年12月に広島県名誉県民として顕彰された。他にも現代工芸美術家協会理事長などの要職にあり、日本を代表する人形作家の一人として活躍中である。

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