『川合玉堂展―日本の自然美を見つめて』

章立ておよび展示作品紹介


 

第1章 諸派を学んで

 川合玉堂(本名・芳三郎)は、明治六(一八七三)年、現在の愛知県一宮市木曽川町に生まれ、八歳で岐阜に転居。山野に恵まれた環境で育ち、風流人であった父に連れられての野山への行楽は、幼い心に自然に対する親近感を刻み込んだ。絵が得意だった少年は、一三歳のときに京都の画家・望月玉泉のもとで絵を学び始め、わずか一六歳で第三回内国勧業博覧会へ出品した作品が褒状を獲得。この年に玉泉の許可を得て幸野楳嶺の画塾に入り、同門の都路華香らと研鑽を積んだ。
 相次ぐ父母の死、自身の結婚などを経て、明治二八(一八九五)年の第四回内国勧業博覧会で《鵜飼》が三等銅牌となる。同博覧会に出品されていた橋本雅邦の《龍虎図》《釈迦十六羅漢図》を見て衝撃を受け、翌二九(一八九六)年に東京に出て雅邦門下となった。
 写生を重視する京都画壇において円山四条派を中心に学び、東京においては雅邦のもとで狩野派の画技を磨いた。同時に、室町時代の雪舟、中国・宋時代の馬遠や夏圭といった古画を研究し、西洋のバルビゾン派やターナーなどからも感化を受けた。本章では、「玉舟」と名乗った一〇代半ばの稀少作に始まり、日本美術院の記念すべき第1回展出品作、画業初期に多く見られる道釈人物画など、多様な方向性を示す初期の作例を紹介する。

 

 

第2章 花鳥へのまなざし

 望月玉泉のもとで絵を学び始めた若き日の写生帖には、鳥や草花、果物、魚などが初々しくも細やかな筆致で見事に描き出されている。当時の真摯な作画研究の成果が、のちの玉堂の大きな糧となったことは想像に難くない。第三回内国勧業博覧会に出品し画壇に実質的なデビューを果たした明治二三(一八九〇)年以降は、風景や人物など多様な表現を模索。好んで猿や鹿も描き、多くの作品を残している(第1章において、その一部を紹介)。
 純然たる花鳥画の初期の作例としては《夏雨五位鷺図》(明治三二年)などが知られるが、その後大正から昭和初期にかけては、琳派的な装飾性も加味させながら、多くの花鳥画制作を行なった。本章においては、明治三〇年代から昭和四(一九二九)年までの花鳥画、さらに同時期における人物表現の一端にも触れていく。吉祥画題としてしばしば取り上げられる鶴は、玉堂も好んで多くの作品に残した。また、玉堂の花鳥画には、セキレイ、ジョウビタキといった人々の暮らしのそばでよく目にする馴染み深い鳥が多く見られる。人物に関しても、描かれる対象が歴史上・宗教上の人物から次第に同時代の身近な人へと移っていく。黙々と手仕事に没頭する老人の姿は、玉堂が好んで複数の作品に残した。


《小春》 大正15(1926)年 二階堂美術館蔵

 

 

第3章 風景表現の深化

 明治四〇(一九〇七)年の東京勧業博覧会に出品され一等賞を受賞した《二日月》は、玉堂初期の代表作として名高い。墨の濃淡、滲みや擦れをたくみに使い分け、点景として帰路に着く人馬を配し、靄にかすむ夕暮れ時の情趣を見事に表現している。その後、大正から昭和初期にかけて、動感の出し方、構図の工夫、色彩の選択など、一作ごとに創意工夫を加えて、風景表現を深化させていった。その創作の軌跡は、大正二年の《雑木山》、昭和二年の《深秋》、昭和四年の《山雨新霽》といった作品群によってたどることができる。また、そのような実践の中で、数ある鵜飼を描いた作品群の中でも最高傑作の呼び声が高い昭和六年の《鵜飼》も生み出されたのである。
 従来の水墨主体、線描主体の描き方に、次第に豊かな色彩表現を効果的に盛り込んでいくことに成功した玉堂は、昭和一〇年前後、色彩と水墨とが見事に調和した円熟の画境を示すこととなる。奥田元宋が淡交会展の会場で生涯忘れ得ぬ深い感銘を受けたという昭和一〇年の《峰の夕》では、墨や代赭などの少ない色数で寂寥感ただよう情景を表し、玉堂門下の児玉希望が先導する戊辰会展に賛助出品された昭和一二年の《嶋之春》では、やわらかな色調で桃の花咲く春ののどかな漁村を詩情豊かに描き出している。戦争の時代における画家の内面を想起させる異色作として、昭和一九年の《荒海》なども紹介する。


《二日月》 明治40(1907)年 東京国立近代美術館蔵 【前期のみ展示】


《峰の夕》 昭和10(1935)年 個人蔵


《雨後》 昭和10(1935)年 山種美術館蔵 【後期のみ展示】

 

 

第4章 奥多摩に暮らして

 玉堂は、戦争の激化によって疎開を余儀なくされ、昭和一九(一九四四)年七月に西多摩郡三田村御岳(現在の青梅市御岳)に移住した。翌年二〇(一九四五)年五月に牛込若宮町の自宅が空襲により全焼。描きためたスケッチ類、愛蔵の書画なども多く焼失し、深い失意の中、古里村白丸(現在の奥多摩町白丸)で終戦を迎えた。その後、一二月には再び御岳に移り、住まいを「偶庵」と称し、そこを終の住処とした。
 周囲の山川草木に親しみ、村人との交流を楽しんだ玉堂。その土地で暮らし、日課としての写生を重ね、そうして生み出される作品には画家の等身大の実感が加わっていった。本章では、日々の暮らしの中での新鮮な感動を素直に作品化した《熊》(昭和二一年)、多摩川の渓谷で桟道を歩む人々を描いた《桟道紅樹》(昭和二五年)や《渓間之花》(昭和二五年頃)、麗らかな小春日和に庭先で心通わす家族を描いた《小春》(昭和二八年)など、奥多摩での暮らしによって導き出された玉堂の新たな境地を示す作品の数々を紹介する。


《五月晴》 昭和22(1947)年 青梅信用金庫蔵


《桟道紅樹》 昭和25(1950)年 個人蔵

 

 

第5章 融通無碍の画境へ

 円熟の境地へと到達した昭和一〇年代以降の玉堂は、抽象画の領域へと踏み込むような斬新な構図を用いるなど、時として実験的な創作も行なった。その傾向は奥多摩への移住後も続き、例えば昭和二三(一九四八)年の《春光》においては、かつて研究を重ねた琳派の表現が大胆な解釈によって盛り込まれている。大胆に省略された水田、金泥と緑青によるたらし込み、リズミカルな桃の木、用水路の流水紋、俯瞰構図・・・。これらが混然一体となって、夢幻的な情景を描き出している。また、大病を患い再起不能とまで言われながらも、復帰作として発表した昭和二九(一九五四)年の《月天心》は、玉堂の水墨画の最高傑作とも評された。研ぎ澄まされた高い精神性と確かな画技は健在であった。
 奥多摩の清冽な空気、木々、水に囲まれながら、詩歌に親しみ、筆に遊び、玉堂の精神はますます純化されていったのだろう。絹本から紙本を使用する頻度が高まり、描かれる人物や動物は点景から次第に大きくとらえられるようになった。画業初期に描く機会が多かった道釈画や花鳥画も、より自由闊達な筆づかいで再び何点も制作された。絶筆とされる《出船》にいたるまで、玉堂は誰にも真似のできない崇高な作画人生を歩み続けたのである。


《春光》 昭和23(1948)年 個人蔵


《月天心》 昭和29(1954)年 パラミタミュージアム蔵


《鵜飼》 昭和31(1956)年 玉堂美術館蔵

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